東京ビハーラの会 田久保 園子さん (1) 11月23日 午前
一三年以上になりますか、「がん患者と家族の語らいの集い」という、がん患者と家族、遺族、医師、看護婦さんとずっと続けている会がございます。そこに、平成九年の桜の頃に「愛の家」の活動について大畑先生にお話にきて頂きました。そのご縁が今日ここにつながっているわけで感謝しております。皆様の大切な研修の場に如何程のお話ができますか、恐縮しております。
私にもしお話できることがあるとすれば、その会をご縁として、あの近くに「国立がんセンター」がございまして、そこで直接患者さんのベッドの側にお話を聞きに行くことをずっと続けておりまして、その中で感じたことなどを少しお話させていただこうかなと思ってお伺いいたしました。大畑先生、今日はお見えでありませんが佐々木先生にお会いしたくてのこのこやってきたのが実情でございます。
お話を苦しみとか悩みを聞く時に、その苦しみの解決を私が晴らしに行くのではなくて、苦しみを聞くことが大切ということに気づいたということが、今日お話したいことの一番ポイントで私が生命というものをどのように受け止めているか、その基盤にたってお話を聞くことが大切であろうとそこの所をお話したいのです。
人間の苦しみ、悩みというものは人類が始まって以来、基本的には変わっていないと思います。二五〇〇年前、お釈迦様が世に出られた時も、二〇〇〇年前にイエス様が世に出て、その解決法を世に伝えて下さった時も、現代も人間の苦しみ、悩みは基本的には何も変わっていない。ただ近・現代と申しましょうか、物質科学文明がどんどん発達して複雑化されて、苦しみを見ないようにすれば、しばらくは見ないですむという人間の錯覚を起こさせる状況があります。基本的な苦しみ、つまり四苦八苦と申しますように、生・病・老・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦は人類が続く限り変わらない。しかしながら技術の進歩によって苦しみがないように、ただ引き延ばしている。それでもなおかつ、ごまかしごまかししても最終的には死ぬ苦しみ―第三者の死は認めても、身近かな死、我身の死に至った時に科学的で論理的な思考法では解決できないので―そこで行きづまってしまう。つまり、死を忘れて、浮かれて、現代人のほとんどは死を知って苦しむ。死を越える道、つまり生・死を越える道を、お釈迦様やイエス様が解決法を示してくださったものに背を向けているのが現状ではないかと思います。宗教、宗教的なものに対する反感というものがこれ程強い時代はないのではないか…我々僧籍に在る者の責任は勿論沢山あると思いますが、宗教が誤解され、それに背を向けられているというのが現状だと思うのです。しかし、宗教の本質というものは、生命そのものがいかなるものかそれを明らかにしてきました。知識では解決できないものを明らかにしてきました。
聖書の中で一番好きな言葉は「神は生命なり」という言葉です。「アミータ」とは限りない生命という意味でございます。宗教的なものに対する反感の強い現代でキリスト教、仏教、他の宗教の違いを語るのではなく、その共通の基盤にたって人間の苦しみを解決するというそこに立ちたいという願いを持っています。
生命、宗教の本質は何かを皆様方に申し上げるのは、お恥ずかしい釈迦に説法ということになりますが、カントの時代にドイツの哲学者、神学者であるシュライエルマッハーの、無限のものに対する絶対依存の感情、ここに今いる私の生命が限りないものの中にすでに包まれているという感情が宗教の本質だという言葉に出会い、今日、皆様方とお会いしてお話できる共通の基盤があるではないかと思います。限りないものの中に包まれている生命、つまり不安、変化する我々の肉体が、すでに限りない生命につつまれている、このことがここでの共通基盤でもありますし、私が苦しみ、悩みの中にいる方の側に行って話を聞く時の基盤になっています。
宗教者が陥り易い失敗は、生死の問題で苦しみ悩む人がいると救いの方法を急いで伝えたいということです。しかし、それでは本来的に宗教に反感を抱いているほとんどの人にはドアを締められてしまいます。それをやった途端に、やっぱり僧服を着た人は嫌だと反発に会ってしまうと経験上感じていることです。つまり話を聞く側が、苦しみ、悩みを話せる人間かどうかが問われています。この一〇余年間の私の表現を使うとすれば、蓮の花の中に私も話をする人も聞く人も一緒に座っているというイメージをもってお話を聞かせてもらっているということでございます。具体的な言葉にすれば、側に行った時に善し、悪し評価をしない心をもって、人生を生きている者として同じだという共感する心をもって、そして、相手を信ずる心、本質的にすでに包まれているわけですから、私が仏法をといて気づかせるのではなくて大いなる力の方から働いて、気付かしめるので安心して聞いていよう…どんなに時間がかかってもその時が必ず来るという、言葉にすればそういうことかと思います。
私は九州佐賀の浄土真宗の寺に生まれ、ずっと寺で育ちました。学校も仏教系でございました。その後、会社員と結婚いたしまして、ずっと普通の主婦でございました。けれども子どもが中学、高校と手が離れまして、子どもに伝えたいことは何かと思った時に、「生命」というものの受け止め方を親から伝えられたので、私もちゃんと伝えたいと思い仏教の専門学校に入りました。卒業していわゆる僧籍を受けました。ちょうどがん患者との話合いが始まった頃で、先程申しましたように、張り切っておりますので、してはいけないことをやりたいわけです。最初の頃にそれを見ことにぴしゃりと止めてくださる方にお会いすることができました。
お会いした何人目かの方に雪山先生という浄土真宗の僧侶であり、産経新聞の記者でもあった方が大腸がんでがんセンターに入院されていました。お寺は富山ですが、雪山先生はその当時四六才で、ベッドの中で「ある宗教者のがん体験」を連載されておりました。皆様の中にもお読みくださった方がおいでになるかもしれませんが、ちょうどそういう時期にお会いすると、「田久保さん、昨日ね、本願寺のお坊さんが衣を着てここにやってきてね、来るや否や「何もかも阿弥陀様におまかせして」という。そんなに簡単に何もかもおまかせなんてできないよ。自分は仏教者であって、人にも法話をするし、新聞にも書くけれど直りたい気持ち、死にたくない気持ちというのは、そんなに簡単におまかせなんてできないよ。あれを言っちゃおしまいね、そばに来てもらうのも嫌。だから人の側に行った時は黙って聞いている―ぽんぽん苦しみ悩みを放り込めるごみ箱になったら良いと思うよ」と。それから入退院を繰返されて富山の方で往生されましたが、その雪山先生にお会いできたお陰でその後、沢山の方にお会いしてお話を聞くことができました。その中で今年の三月までお会いした山下よし子さんという方のお話をしたいと思います。
山下よし子さんは五〇代半ばの方で、お嬢さん二人、ご主人は小学校の校長先生という方でした。最初にお会いした時は、三年位前、私の親友が同じ病室に入院しており、ちょうど会報ができましたので、それを持ってお見舞に行っておしゃべりをしておりました。友人が退院してもずっとがんセンターに行っておりましたので、彼女が入院していれば会うという関係でした。彼女は柏の役所の保健の管理職の方で、ただの保健婦さんではなくて指導する立場の方でした。病いに苦しむ人に自分がどんなに役にたってきたかを二年一〇ヶ月ずっと聞いてきました。すでに子宮体がん、卵巣がんが再発して肝臓、リンパ節に転移して、その度に抗ガン剤で押さえていくわけですが、その間も民間療法を受けに仙台に行かれたり、職場に復帰されたり、凄い方でした。
生まれて来た以上如何なる人も死ぬのであって、当たり前、自然のことだと思う方がまさに少数意見で、死に直面して、怒り狂うのが世間一般なのだということを彼女を通して知りました。最後の入院の今年の一月にがんセンターが新しくなりまして、そこを歩いておりましたら、「田久保さん」と呼ばれました。「入ってきたのよ」―個室におられて、苦しい息の中から「待っていた、聞きたいこと、話したいことがある。処置室から戻るまで帰らないで」。戻ってこられると「いつか四人部屋にいた時、風船の話をしていたでしょ。会報か何かに書いていたよね。あれをコピーして持ってきて欲しい。そして風船の話を詳しくして欲しい。」ということでした。その風船の話とはこういうことでした。
私自身の子供の時の経験なのですが、私は太平洋戦争が始まった年に生まれ、まさに戦後の栄養失調の後遺症と思いますが、九歳の夏休みの一日前の臨海学校の健康診断で肺結核ということで絶対安静を言い渡されました。退院後も寺の離れで一人天井を見て寝ている日々を過ごしました。境内で遊ぶ子どもの声を聞きながら涙を流し、子どもなりに死んでゆくのだと毎日考えるようになりました。
その時の死のイメージというのは、近所にあった砦の古い井戸の中に自分が落ちていく―何処まで行ってもまっ暗闇の深い井戸の中に落ちていく―その恐ろしさ、恐怖に真夜中に悲鳴をあげたと思うのです。その時に父が、色とりどりの風船を膨らませて、話してくれました。「空気が一杯入っている風船は赤い風船はお姉ちゃん、青い風船はお父さん、白い風船はお母さん、紫のしわしわの風船はおじいちゃん、パンパンにふくらんだ風船も針でちょんと当たるとパンとわれてしまうけれど、中の空気は外の空気に合流するだけだよ。生命も同じだよ。大きな大きな生命の中に人間の一人一人の生命も外へ出ていくだけ。身体がもしや亡くなっても、形は変わっても、中の生命は外の生命と一緒に合流するだけ。そして大きな生命がまた新しく生命を創る働きになるのだよ」と…。その話を聞いた時に怖い怖いと思っていた暗い死が、二年間、誰も見舞いにも来てくれない価値のない者だと思っていたのが、一瞬のうちに目の前の蔵の壁がぱっと開いた思いでした。
この話を彼女にして、私の生命についての受け止め方は、九〜一〇才の時と今と何も変わっていないと話しました。山下さんは、自分が最初この話を読んだか、聞いたかした時は『何を言うか』と思っていたが、ここ何日かの間に『あー、そうだったのか』『あの風船よ』と気づいた。それで『こういうことだったのよね』と話したくて私を待っていてくれたのでした。山下さんが生命というものが肉体の中に閉じ込めているような小さな物ではなくて、大きな生命の一部分だということに気づいて、それを話したい時に周りに聞いてくれる人がいない。その時に私がちょうどやって来て嬉しいということを話された。そして、この話をご主人と二人の娘さんと、いろいろ問題を抱え、新興宗教に凝っている姉にも詳しく話して欲しいということでした。翌日、家族の皆さんに同じ話しをしました。ご主人はこの話を是非生徒たちにも話したいといわれました。それまでなかなか病室に来られなかった二〇代の娘さんたちもその後殆ど毎日病室に来られるようになりました。次の週には柏のケアセンターに移られ、私がそちらに出かけるようになりました。そこはそれは暗い、話し声もしないシーンとしている所なんですが、なぜかその病室だけは明かるいんです。のんびり食べたり、娘さんたちに怒るべきことは怒ったり、尾瀬のビデオを見たり、『夏が来れば思い出す』を皆で歌ったりしました。
山下さんは「自分はずっと医療者側にいて、生命=肉体であり、一秒でも延ばすことが使命、目的だと思ってやってきた。もう少し早く気がつけばよかったのに、やっとここにきて気付くことができた」と…。
お葬式の後、「人間はがらりと変わることがあるのね、後がもっと寂しいかと思っていたけど一緒に生きているように感じる」とはしみじみおしっゃった娘さんの言葉でした。
このようなことがいつもいつも起こるわけではありません。生命を肉体に限定し、死んだらおしまいと思っている(特に医療者側に多いのですが)中で、たまたまそのことに気がついた時に、その嬉しい気持ちを誰にも話せないまま、一人ぼっちになってしまう。ここに宗教者がいる意味があると思います。キリスト教の牧師さんであろうと、仏教のお坊さんであろうとお坊さんでなかろうと、生命は無限のものの中にすでに包まれていると思っている人のいる意味がここにある―お釈迦様の教えに照らして、キリスト者の方はイエス様の教えに、肉体の状況が凄まじいものであっても心が解放されて、自由な精神的に健康な状況にその方が転換される時に一緒に喜びに与ることができる。
ターミナルケアーという言葉が、もし新しい生命のへの出発点という意味で使うことができるなら、そこに宗教者がいる一番大切な意味があると思っています。形あるものにしか価値を認めない方に、もっと広い世界があること、柔らかい気持ちで如何なる状況の中でも過ごすことが出きることを皆様に伝えることが我々の役目なのではなかろうかと思います。
『大きな生命の中につつまれている』ということを見ことに歌っている私の大好きな金子みすゞさんの詩をご紹介します。九六年前に生まれ、二六才で詩を五〇〇位作って亡くなられた、浄土真宗の土壌に生まれ育った方です。
『蜂と神さま』
蜂は お花の中に
お花は お庭の中に
お庭は 土塀の中に
土塀は 町の中に
町は 日本の中に
日本は 世界の中に
世界は 神様の中に
そうしてそうして 神様は ちっちゃな蜂の中に
ささやかな経験を話させて頂きました。