一九四一年(昭和一六年)一二月八日、日本軍はハワイの真珠湾と英領マレー半島とを奇襲攻撃し、いわゆる太平洋戦争が始まりました。始めは、予想以上の戦果をあげ、翌年の三月までに東南アジアのほとんどを占領することに成功しました。しかし、この成功は日本軍の十分な準備と奇襲攻撃に対して、連合国側は、装備や士気に劣る植民地軍でしか対抗出来なかったことの結果でした。
一九四二年(昭和一七年)六月、ミッドウェー海戦で日本軍が惨敗したことを転機として、アメリカ軍は、本格的な反撃を開始しました。一九四四年(昭和一九年)に入ると、アメリカ軍は中部太平洋からマリアナ諸島を支配し、六月には、サイパン島に上陸し、日本軍は大打撃を受けました。このことによりアメリカ軍は、マリアナ基地からB爆撃機を発進させ、日本本土を空襲することが出来る様になりました。この時点で、日本軍の敗北は決定的となり、これ以後の戦闘は、無意味な流血、無駄な犠牲を意味するものとなりました。
アメリカ軍は一九四四年一〇月に、沖縄上陸作戦を決定しました。それは、沖縄を占領し、強力な基地を設定するためでした。
アメリカ軍にとって沖縄の軍事的価値は非常に高く、沖縄を獲得出来れば、日本本土を余裕をもって空爆できるだけでなく、台湾、東シナ海、朝鮮半島、対馬海峡、中国東部などを制圧出来るようになるのです。そのような地理的条件と共に、沖縄には、本島と伊江島を合わせれば、八〇〇機を収容出来る飛行場と、多数の軍艦が停泊出来る港が二か所あり、物資の輸送、集積にも便利で、また、台湾、フィリピン、南方の日本軍を完全に本土切り離すことが出来るのです。そのためにアメリカ軍が沖縄戦に投入したのは、艦船一、四五七隻、兵員五〇万人以上というものすごいものでした。
この時アメリカ軍は既に、日本本土と沖縄の相違点に着目し、沖縄を本土から分離することを考えており、そのために沖縄の歴史、地理や社会、文化についての調査を進め、上陸と同時に、軍政府を開設し、琉球列島の日本本土からの分離を宣言したのでした。