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第96(定期)教区会開会演説

2003年3月21日
主教 植田仁太郎

 お忙しい中、各教会の信徒代議員の方々、また聖職議員、教役者議員のみな様、教区会のためにご参集下さいまして感謝申し上げます。

イラクでの戦争が現実のものとなり、国際連合を舞台としての平和維持の試みの難しさを経験し、また一部の反戦への国際世論の高まりにもかかわらず、日本政府の外交努力や一般の政治への関心度が誠に貧弱に見えるこの頃です。また経済は低迷し、いわゆる「構造改革」も、いたずらに失業者の数を増すという犠牲だけが目立って、その成果が上がっているのかどうかさえ不明です。また世相も、悲しい幼児虐待や奇妙な集団自殺、動機の薄弱な殺人や暴力が横行していることを伝えています。私たちの生きている世界と社会が一体どのような状態にあり、どのような方向に進もうとしており、私たちキリスト者を含めた良心的に考え行動しようとする者達が、一体どこに私たちの指針を求めまた何を目指して歩むべきかを読み取るのが極めて困難な時代です。

そのような混迷を深めている世界であっても、そこではひとりひとりかけがえのないいのちを与えられている人間がその生の営みを続けており、無名の少数で目立たない人々やグループがそのいのちと人間の尊厳が損なわれることのないよう、様々な活動が続けられていることも事実です。そして何よりも、この世界・社会は神さまの働き給う場です。

▽創造的な人間

私たちの信仰の教えてくれることに従えば、神さまの働きは、多くの場合、人の眼を魅くことも、新聞の見出しを飾ることも、世の喝采を浴びることもない姿で、ほんの小さなしるしをみせるだけで続けられているのだと思います。「地の塩」である働き、「一粒の麦」である働きはいつもそのような姿で続けられます。にもかかわらず「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためではない」のですから、神とともに働く人々のわざは、必ず世界と社会に、その大切さが認められるようになると、私たちは信じています。

従って教会は「時が良くても悪くても」、イエス・キリストによって示された道を忠実に歩み、またその歩みを共にしてくださる方々を迎え育てることを、常に怠ってはならないのでしょう。それは、混迷を深める世界・社会から一切身を引いて、自分たちだけのささやかな安心や敬虔さを求めることではなく、イエス・キリストがなさったように、混迷の中で行き場を見失いそうになる人々と共に居て、なおそこに見えてくる神さまの光を見出し指し示すことだと思います。それもまた容易ならざることを充分承知しています。

混迷の中で光を見出し、指し示す試みは、神のみに信頼を置きつつ、あらゆる可能性が尽きてしまうように見える中で、なお神さまが備えて下さっているものがある、その賜物を見つけ、それを活用することから始まるのでしょう。教会そのものは、社会の混迷に較べれば、少なくとも何を指針とすべきかがはっきりしているわけですから、大変恵まれていると思われます。けれども、世界・社会の在りようと無関係な一隅として存在しているのではなく、その影響を少なからずこうむり、たとえば、教会のメンバーの平均年令が高令化するなどの現象が見られます。けれども、大都市圏に位置する東京教区は、多くの賜物――教会が与えられている最も大切な賜物は「人」に他なりませんが――に恵まれていると思われます。私たちの場合、「賜物である人」とは、言うまでもなく聖職(教役者)と信徒です。恐らくいつの時代にも、教会が教会として世界・社会にその使命を果たせるのかどうかは、聖職・信徒がどれだけ、教会の業の良き伝統を身につけ、さらにその時代の人々の根源的な必要に応えられるような創造性を発揮できるかにかかっているでしょう。恐らくそれは、この時代に生き残りをかけた企業人に求められていることと似ているかもしれません。良き伝統を身につけつつ、時代の(表面的ではなく)根源的な要求に応えられる創造的な人間です。

▽共同体の核に

本年1月に、初めて、教会委員合同礼拝・祝福式を催しました。一五〇名を越える教会委員の方々が各教会からお集まり下さいました。私は、その方々の教区・教会への忠実さに敬服致しました。未だ、そこから何が生まれた、というわけではありませんが、その方々の忠実さと勤勉さ無しには、教区と教会の何事も進めることはできないのだということを、改めて強く認識しました。言うまでもなく教会委員という役をたまたまお引き受けいただいてない多くの方々も、同じような忠実さと勤勉さをもって、教会生活に励んで下さっていることを良く承知しています。この方々が教会の「よき伝統を身につけつつ」「時代の根源的な要求に応える創造性」を発揮できる共同体の核になっていただければ、教区・教会にとって、今まで以上に大きな力となってゆくでしょう。議決された信仰と生活委員会は、そのような核となっていただける方々を育て助けるプログラムを考えて下さっています。他方、教会の共同体のもうひとつの核となるべき聖職団も、やはり私たちに与えられた「賜物としての人」であることに他なりません。

▽緊張感をもって

数週間前、私はある教会に招かれ、例の教区不正経理事件の教区の対応について懇談する機会がありました。教区の対応へのご不満を訴えていらっしゃる中で、ある方から、「こういう事件が起きてしまうということは、要するに全体に緊張感が無いということですよ」と指摘されました。私は、一生懸命反論しようとしましたが、分かっていただけそうな反論はすぐには見出せず、沈黙しました。それ以来、この叱正のことばはずっと私の心に残っています。後から考えてみても、私のできる唯一の反論は、「そう言われても、事件の発生した二年間が、とりわけ緊張感を欠いていたわけではなくて、過去五十年の事務体制と過去五十年の職員配置と過去五十年の教区の運営と、過去五十年の教区会のやり方と、過去五十年の聖職と信徒の在りようが、そのまま続いていた、その中で不幸にもひとつの不正な行為が為されただけなんです」という、誠に責任転嫁的な反論だけでした。その方の指摘されたことは、まさに五十年来の私たちの「緊張感の欠如」を図らずも指摘されているのかも知れないと理解するに至りました。

そしてそのことばは、教区のあらゆる人々・機関に当てはまることではないけれども、少くとも私自身を始めとして聖職団が謹んで引き受けなければならないことだと思いました。

私自身は、その指弾を、百パーセント不当なものだと斥ける自信がありません。聖職団は、これまでにも増して、伝道・牧会のプロとしての職務を与えられている者として「緊張感」をもって、その職務に当たらなければならないと思うに至った次第です。

▽牧会報告・研修の義務化

一番最近の教役者会には、教区の教役者がなるべく多数出席下さるよう要請し、小職からひとつの発案をさせていただきました。大方の賛成をいただきましたが、それは、各教会牧師・定住教役者に、二ヶ月に一度、「伝道・牧会業務報告」を主教宛に提出していただくことと致しました。

「報告のための報告に終わってしまうのではないか」「それをどのように活用するかが問題だ」などの意見が表明されましたが、少なくとも実験的に始めても構わない、というのが大方の教役者の反応でした。もしかしたら、何の成果もない、もうひとつの悪しき官僚制のひとつに堕するかも知れませんが、少なくとも聖職団がその伝道・牧会の働きを「緊張感をもって」自己検証するよすがとなれば、と願っています。同時に、各教役者が、年間十五時間の研修の時を設けるよう要請致しました。詳細はなお検討中ですが、ただ自ら読書や視察をしてその時間を過ごすことではなく、講演や研修コースや特別講義・セミナーなどに出席して、正味十五時間を、そのような新たな研鑚の時として意図的に用いるというのが目的です。そのような研修を義務付けているアメリカ聖公会諸教区の教役者のお話では、年間わずかその程度の時間でも、実際に実行するのは結構大変であるとのことです。これも教役者の職務に緊張感をもって当っていただくための一助となればと願い、実施する予定です。各教会におかれましては、そのような試みを全教役者が始めようとしていることをご了解下さるよう、この席をお借りしてお願い申し上げます。

▽牧会の体制づくり

それにつけても、聖職・教役者数が現在の教区の教会数に満たないことは、残念ながら現実です。九つの教会で、専従司祭を置くことができない実情は、信徒の皆様に誠に申し訳ないことだと思っております。この現状を打開するためには、――数年後でも、教役者数が劇的に増加することは望めませんので、

  1. 一人の司祭に、二つの教会の伝道・牧会を担当していただくことを視野に入れ、そのための体制を信徒の皆さまのお知恵をいただいて、造り出したい、
  2. できる限り他の教区(海外を含めて)の応援を仰ぎ、『人』の確保を目指したい、
  3. 将来を踏まえ、教会が用いることのできる賜物は、ともかく『人』であることの認識のもとに、聖職として立って下さる方の発掘に引き続き努める、

という方針を採るつもりです。

(b)、(c)には昨年来取り組んで参りましたが、本年は、ソウル教区とハワイ教区から応援をいただけることができました。その応援さえ、未だすべての「人」の必要を満たすことにはなりませんが、それでも、それぞれの教区のご好意に感謝したいと思います。

また、聖職候補生となることを考慮して下さっている方は、昨年来六名を数え、去る2月には、その方々とともに常置委員・聖職養成委員・聖職試験委員がご一緒に一日修養会を催し、その方々の召命を助け、お互いに励まし合う試みを致しました。各教会で、自ら聖職を志すという方々の発掘とともに、「ぜひこの人を聖職に!」と、仲間を新たな道へ送り出す発想を持っていただければ幸いです。同時に各教会信徒の皆さんの間でも、現に主任司祭が与えられているか否かにかかわらず、牧師の務めを、さらに、どのような形で信徒として分担できるのかの検討を進めていただければ有難く存じます。

以上『人』についての私の思いを述べることに終始致しましたが、前回、前々会の教区会で私が述べましたことは、依然として、私が自身に課した宿題として生きていると認識しております。今日、新たに申し述べましたことも、その宿題の遂行の下支えになるものと信じております。

教会委員合同礼拝・祝福式で申し上げたことですが、教会成立の当初から、教会の歴史の中で、教会が教会としてその理想を申し分なく発現したなどという時代は一度も無かっただろうと思われます。教会が世俗の権力と結んでその権勢を誇った時代は例外として、いつの時代も、聖職と信徒はイエス・キリストを世界・社会で体現する教会として「労苦し、奮闘する」(テモテへの手紙第I)ことになります。

最後に、このたび東北教区被選主教となられた、加藤博道師を、日本聖公会全体への奉仕者となられる方として、私どもの祈りとともに送り出したいと思います。恐らく東京教区でのお働き以上の厳しい状況の中での、主の僕の働きをされることになるでしょう。

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