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なぜ「正義と平和」は教会で不人気か

〜「正義と平和」協議会だより〜

主教 植田仁太郎

 教会の二千年の歴史の中で培われてきた務めは、礼拝、牧会、伝道、教育そして福祉でした。そして世の中と直接関わる教育と福祉の分野では、教会は輝かしい貢献をしてきました。現代では、その分野では国家が責任を持つようになったのも、教会の先駆的働きがあったからに他なりません。同時に、国家の手になる教育や福祉が主流になった今でも、その分野の教会の働きの意義は、少しも減じてはいません。そのことは教会の中でも充分に認知されています。

 ところが、教会が「正義と平和」の問題に関して発言しまた行動することになったのは二千年の教会の歴史の中で、極く最近のことです。だから、社会正義と平和の問題に教会が発言し行動すること―それは否応なく「政治的」発言と行動になります―は、教会の務めに馴染まない、適しないと考えられるのは良く分かります。二千年来してこなかったことをやろうというのですから、「教会がすべきことではない」という思いが、何となく教会を支配してしまうのでしょう。

 旧約聖書で語られている時代には、正義と平和に関しては、しばしば預言者によって取り上げられ、発言がなされ、王や支配者や宗教的リーダー達に鋭い批判が向けられました。預言者達は信仰的良心からそうしたのです。

 この預言者達の社会批判と政治的発言の伝統が、イエス・キリストの中に脈々と息づいています。多くの人は、イエスは政治的には関与しなかったと良く言いますが、今日的な意味での政治的活動はなさらなかったでしょう。けれども、大多数の人々が貧しく何の権利も持っていなかった当時の社会で、「貧しい者は幸いである」と主張すること自体、極めて政治的です。

 やがて、教会が成立し、地中海世界で公認され、さらにヨーロッパである権力を持つようになると、教会は社会の支配層と結びつくことになり、預言者的批判精神を鈍らせることになりました。

 しかし近代になると、社会制度や法律、それに経済システムが公正であるためには、どうあらねばならないか、という知識と経験が飛躍的に増大します。それについての人々や社会一般の自覚も高まりました。かつては神から賦与された犯さざるべきものと考えられていた社会制度や人間の身分制は、そうではなくて、単に人間の造り出したもので、多くの欠陥を持っていることが分かってきました。

 また教会は、教会だけが神の道具なのではなくて、神は世界のあらゆる所で、あらゆる人々を通して働いておられるのだ、ということを再発見しました。そしてようやく、教会も、神の造り給うこの世界と歴史の中で、正義と平和を実現する器とならなければならないと、自覚できるようになりました。弱い者の味方になられたイエスのように・・・。

 こうして、二十世紀以降になって、正義と平和の問題に発言することが、大切な教会の務めのひとつとなりました。