NSKK 日本聖公会 東京教区
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1月1日に想うこと

主教 植田仁太郎

 その昔、世界のほとんどの社会が、農耕を中心とする社会であった時代、新年を迎える日は、いわば特別な一日として区別されたのだろう。その特別な一日は、現代の都市化され高度に組織化された社会でも、名残りをとどめている。役所や学校や工場や仕事をしなくても良い機関は、すべてその日は仕事を休む。その日は、多くの人々にとって、手帳に予定を書き込むことのない空白の一日であろう。
 その昔特別な日は、共同体を憶え、家族を憶え、一応区切られた時の流れを憶え、これからの将来を憶える日であっただろう。共同体、家族、時(人生・歴史)、将来を意識にのぼらせるというのは、とりも直さず、いわば宗教的(哲学的)営みである。その名残りも現代にある。多くの人々が初もうでに出かける。  ただし現代では、この日が、特別な日でも空白の日でもない。普段と変わらずあるいは普段以上に仕事に精を出さなくてはならない日となってしまった人々がどんどん増えている。あるいは、仕事に追われ、仕事以外にも休日をつぶされてゆく人々の、本当に数少い、空白の日かも知れない。
 仮りに1月1日でないにしても、現代にとっても、人間には「特別な日」「空白の日」は絶対に必要であろう。つまり、共同体と家族と人生と歴史、それに将来に想いを馳せる真の意味の「休日」が、私たちには必要であろう。  [ところで、多くの宗教では、その一年のサイクルを必ずしもいわゆる西暦上の1月1日と一致させていない。それぞれ信仰内容に応じたカレンダーを持ち、そしてそれに呼応した宗教行事を守るからである。キリスト教の新年は、クリスマスを迎える四週間前に始る。1月1日は年初として祝われるのではなく、生まれたばかりのイエスが、命名された日として祝われる。]

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