主教 植田仁太郎
夏休みの季節です。自分が小学校の頃から、長い休みがやってくるのだと、何か心がわくわくする季節でした。 やがて中学・高校・大学と進むにつれて、この季節は(夏休みは)、勉強の遅れを取り戻したり、読まなければならない本を読破したり、書かなければならない作文やレポートを、「よし!やるぞ」と決心する季節になりました。そして決心するだけで、結局、決心したことをやりおうせないまま、秋になってまたアタフタするということの、(人生は)連続だったように思います。ふり返ってみると全く“鍛錬の夏”をみずからの努力で獲ち取ることはできませんでした。昔、大学の指導教授に、「鍛錬の夏を過ごさない者には、実りの秋を迎える資格が無い」と言われたことがあります。 聖書の倫理的な教えは、この「鍛錬」に通じる人生態度、すなわちすべてに刻苦勉励・謹厳実直たることを教えているかのようです。教会の修道者たち、宗教改革者たち、そしていわゆるピューリタンの伝統を引き継ぐ多くの市民にも、そのような倫理は大切にされているでしょう。日本に、明治以降に伝えられたキリスト教も、そのような倫理観に支えられた欧米の宣教師たちの影響を色濃く残しています。 同時に、イエス・キリストの福音(良い知らせ)は、人間としておおらかさを喜びとしています。神の愛は、人の善悪や、人の決意や、人の能力の違いを越えて、あるがままの人間を大切なものとして、注がれています。神に愛される人間は、ことさら倫理的に優れた人だとすることは、むしろ神の意に反することです。 さあ、鍛錬の夏を、もう一度やってみましょうか。また結局目標を達成できず、それで良い!と言って下さる神さまの慈愛にすがることになるのでしょうか。