主教 植田仁太郎
歴史上に現れたイエスというひとりの人物をめぐって、信仰の共同体が生まれ、教会という組織が生まれ、聖書という文書が書かれたり編さんされたりしました。そして二千年の歴史を重ねるうちに、イエスというひとりの人物をめぐって、さらに生み出されてゆくものは拡大してゆきました。キリスト教の教義や礼拝の形や、キリスト教の倫理・道徳やさらには、キリスト教芸術といわれるものや、実に多くのものが生み出されました。 しかし、イエスというひとりの人物は、自分がそういう壮大なものを生み出す、その源になろうとは全く考えていなかったでしょう。弟子達と考えられていた人々も、イエスが処刑される前後には、どうも、その師を見捨ててしまった形跡があります。 そうであるのに、その処刑されたひとりの人物をめぐって生まれた様々なものが、文化も歴史も全く異る日本の地まで達しました。 イエスが、そもそももたらしたのは何だったのでしょうか。教義でも道徳でもファッションでも思想でもありません。聖書を最初に書き記した人々、たとえばパウロやマルコという人々は、イエスのもたらしたものを「福音」と呼びました。これはギリシャ語を翻訳した漢語でしょうが、「良いニュース」という意味です。 イエスという人物の人生、語ったこと、行為、それを、もう一度「良いニュース」として受け取ってはどうでしょうか。