主教 植田仁太郎
新しい年の区切りの時に、誰もが、人生の新たな展開を、待ち望んだり、自らに課したりするようです。俗に、「新年の抱負」ということでしょうか。 私は、神への信仰のうちに、いつも、世の中のまっただ中で、神さまのわざ、というものに出会いたいと願っています。私は、神さまを、キリスト教の教会のうちに留めておくことはできないし、キリスト教の教義に従って働く方だとも思わないし、必ず信仰深いクリスチャンの中で働く方だとも思っていません。 神さまは自由に、そのわざを必要としている人々の中で、「神」の痕跡さえ残さずに、働いておられると確信しています。 クリスマスの日の夕刊に、ボランティアで宇都宮の学校を警備している人たちが、学校近くでいつも野宿している人の姿が見えないのを心配して、ひん死のその男の人を発見した…というニュースを伝えていました。病院へ入院させたばかりか、結局住む所も世話してあげたようです。心暖まる話です。私は、こういう、ある人々の気取らない善意と、それによって喜びを感じる人々の間に、神さまの働きを見ます。 人々に、静かに「エライなぁ−」と感じさせるわざの中に、神さまが働いていると確信します。そういう神さまの無言のわざに、今年も出会いたいと願っています。 神様が、皆さまの所でも働いて下さいますように。