主教 植田仁太郎
先月のページの冒頭で、旧約聖書に記されているいにしえの信仰者の、神は全てを麗しく造られたのだという洞察の素晴らしさを述べた。そしてその麗しいはずの世界と人間がどうして現今のように狂ってしまったのだろうか、という問いを残しておいた。 最近教区で、旧約聖書のこの部分をみんなで勉強する機会があった。上智大学の教授から、「全てが良かった」その「全て」を神が創造された際、人間を創造する時だけは、神はちょっと躊躇したことをうかがわせる表現が用いられていることを学んだ。宇宙と自然と動植物を、「光あれ!」「生き物を生み出せ!」と一気に命令形のことばで創造した神が、人間を創る際は、実に慎重だったというのだ。 さらに神は、人間を神が意のままに操ることのできるロボットとして創造したのではなくて、自由意志を持った存在としてお創りになったという。神は人間を、神と対話しつつ世界を治めてくれる存在としてお創りになったのだ。 ところが、その人間が、やがて神と対話することをしないまま、みずから勝手に世界を治めるようになったために、まさに「狂い」が生まれてきたのだ。 その事態を、神ご自身のイニシャチブによって何とかしよう、となさっているのが、イエス・キリストの到来であると、私たちは信じている。再び神と対話のうちに生きてゆく道が回復されたのだ。