主教 植田仁太郎 |
60年前のあの日から、この日は特に平和を憶え平和を求める日となった。「終戦」でも「敗戦」でも、あの日をどう呼ぼうと、あの日は一つのことを悲痛にも全国民で悟った日であったはずだ。自分たちの国家がみずから決断して始めた破壊と殺戮と暴力は、他の国、他の民族の人々に対しては言うまでもなく、国家にそれを許し、結局みずからもその破壊と殺戮と暴力をこうむることになった日本の私たちにとっても、その理由や目的を全く正当化できるものではないと、悟った日である。そしてその悲痛な認識は、数年を経ずしていわゆる「平和憲法」として、わたしたちの思想的財産となって引き継がれることとなった。
二度の世界大戦を防ぎ得なかったキリスト教会とその神学の営みも、厳しい反省を迫られることになった。その反省は、私たちの信仰の表現をする時にも、なるべく「戦い」「滅ぼす」「兵士」「勝ち取る」などの戦争のイメージにつながる言葉や概念を用いないようにするという努力にも表れている。残念ながら、イスラエル民族の民族神話の性格を色濃く持つ旧約聖書は、「万軍の主」「滅ぼす」など戦争と殺戮是認の物語に満ち満ちている。そのことが、永い教会の歴史の中で、神のため、キリストのために「戦う」考えを良しとしてしまう間違いを、気付かせなかったのかも知れない。
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