春そしていのち
主教 植田仁太郎
暑さ寒さも彼岸までと申します。年毎に、季節の変わり目が早まったり遅くなったりしますが、それでも、春分・秋分を境にして、はっきり変るものですヨ、という昔の人の見事な観察眼を示した諺だと思います。 事実、4月を迎えますと、まさに「春」を実感します。森羅万象すべての「いのち」がまさによみがえったようです。 この自然の営みのサイクルに見事に合わせたかのように、4月は、社会の様々なものが新しく出発する時、新年度、新学期として開始されます。まさに自然の営みと同じように新たな「いのち」の営みを始める時です。 ところで「いのち」とは実に不思議な概念で、誰もがそのことを充分わかっているつもりなのですが、別のことばで説明しようとすると実にむずかしいことです。また物質ではありませんから、これがいのちだと指し示すこともできませんし、また力やエネルギーのように数値化することもできません。善悪の尺度を当てはめることもできません。敢えて定義すれば、みずから成長し、いずれ死ぬ(成長を止めてしまう)物体、とでも言いましょうか。そしていのちは、あるいのちから「生まれる」ということによってしか存在しないことも確かです。未だにそれは「合成」されたためしはありません。 生まれ出るもの。成長するもの。新しいいのちを生み出す可能性を秘めたもの。 私たちひとりひとりはそういうものとして存在しています。そして、イエス・キリストは「私は道であり、真理であり、いのちである。」とおっしゃいました。私たちひとりひとりが、イエス・キリストと共有できる「いのち」というものを与えられている、そういう可能性をいただいている、ということでしょう。