誰のための信仰、誰のための宗教
主教 植田仁太郎
神を信じる、仏を信じる、アラーを信じる、靖国神社に祀られているみ霊を信じる――これらの営みは、大変個人的な人生態度だと考えられています。そして、その「信じる」という人生への姿勢は、みずからの幸せや、解脱や、救いに通じる在り方だと考えられています。そのためにみずからに、ある戒律や道徳を課す、ということはそれなりに尊重されなければならないでしょう。 最近のこと、例のオリンピックの聖火リレーの混乱の中で、長野の善光寺が、それに関わることを辞退したことが報じられました。善光寺幹部の間では色々意見があったそうです。混乱を避けるため、という一般論から、同じ仏教徒であるチベットの人々に、むしろ連帯する姿勢を示すべきだ、という意見まで――仲々まとまらなかったようです。 この事態を論評した朝日新聞は、次のように述べています。「現実から超然とするところに宗教の価値を見いだす立場もあるだろう。しかし宗教者が他者の『苦』を自分の『苦』として心から分ち合うとき、以前と言葉や行動が違ってくるのはむしろ自然ではないか。」 信仰や宗教は、みずからの幸せや救いや解脱を求めるレベルだけでなく、他の人々の「苦」を分ち合う次元を含むものだ、という理解は極めて大切でしょう。 クリスチャンは、自分が神さまの良い子であるためにクリスチャンなのではありません。今、苦しんでいる人、傷ついている人、悲しんでいる人が、神さまの愛に包まれるようになるため――そのために、神さま、私をお用い下さい、と神さまを信じて祈っています。