「しあわせですか」と問われて
主教 植田仁太郎
最近の読売新聞の特集に、現代日本人の「幸福観(感)」についての世論調査の結果というのが報じられていました。 私は常々、世の中の抱える問題や、次々と起る悲劇的な事件や事故に心を痛めることが多いので、六十パーセント以上の人が、今、しあわせだと感じていると回答していることに驚きました。もちろん、「しあわせだ」と感じる人々が、多数いらっしゃることに取りたてて問題だ、などというつもりはありません。ただし、そういう調査が行われて、そういう結果が表れたとして、「だから、どうなの?」という疑問は残ります。多くの人々がしあわせだと感じても、同時に、やっぱり多くの人々の痛みや苦しみや絶望感が無くなるわけでもありません。 イエス・キリストは、「幸い」なのは、貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人……だと教えました。イエス・キリストにとっての「しあわせ感」は、自分の生活や日常の満足度というのは、全く考えられていません。イエスは人々の毎日の生活、特に食べることや労働することの重要さに着目していた方ですが、それでも、「幸い」なのは、毎日食べ物がある人、仕事がある人、などとはおっしゃいませんでした。イエスの教える「幸いな」人というのは、自分のことではなくて、他者・隣人へと心と生活を向けることのできる人なのです。 信仰というのは、自分の生活の満足度を増すための営みではないことが良くわかります。