「裁く」 と 「赦す」 −その1− 主教 植田仁太郎 |
裁判員制度が施行されるようになって、信仰者の対応が論じられている。色々な面を論じなければならないが、ひとことだけ、カトリック教会の岡田大司教が語ったと報じられる、「裁くということは信仰者になじまない」という理解にコメントしておきたい。 裁判という司法制度を、一群の専門家(検事や判事や弁護士)に委託しておくか、今回の制度のように一般市民にも参加してもらうように改めるか、まだ議論は続くだろう。しかし、ここで市民に求められているのは専門家とともに、反社会的行為や非人間的行為(いわゆる犯罪)を認定し、その行為者に社会的責任を取ってもらうことを決定することである。その行為者を、神の前に断罪しようというのではない。 またキリスト者は常に「赦す」ことを教えられているから、裁きに加担しない方が良いという論を展開する人も居る。しかし、イエス・キリストが「七を七十倍するまで赦しなさい」と教えられたのは、物的、身体的、精神的に被害をこうむった人に対して、その加害者を赦しなさいと教えているのであって、世間一般に暴力・横暴が横行しても、放っておきなさいと教えているわけではない。また被害者でもない第三者が、加害者の悪業を放っておいて、偉そうに被害者に対して「赦してあげなさい」などと言うことほど、ひどい話はない。 キリスト者は人を「裁く」ことに加担したくないかも知れないが、この社会に司法制度は必要である。キリスト者にとって「赦す」心は大切であるが、それはこの世の悪を放置することを容認することではない。
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