大齋始日 灰の祝別の礼拝 説教
主教 アンデレ 大畑 喜道 |
灰の水曜日を迎えた今日、ご一緒に集まり礼拝を捧げることができることを感謝します。私たちがどういう思いをもってこれからの日々を生きていくべきかを学び、これから始まるレントの道のりをともに進んで参りましょう。聖霊が私たちの信仰の歩みを、神とともに生きる旅路を無事に歩み続けるための神からの援助を提供してくださいます。 神に向かって方向転換しなさい。そして歩みだしなさいこれが学ぶべき事柄です。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2,12)。この呼びかけがすべてを要約されています。特祷において、キリスト者は各自が真の悔い改めの歩みを始めるよう勧められています。預言者ヨエルは、心を込め、断食と涙と嘆きをもって、天の御父の元に立ち戻るよう励まします。神は慈しみ・憐れみであり、怒るに遅く、慈愛に早く、私たちがもとの道に戻ることを待ち続けておられます。もし悔い改めへの招きを真剣に受け止め、聞いて実行していくなら、神の約束ははっきりしています。神は私たちに勝利を得させ、私たちは数えきれない恵みで満たされるのです。私たちはこの礼拝にあずかり、その心を新しくし、その精神をも強めてくれるよう神に願いながら、聖書の言葉の一つ一つを自分自身の言葉としていきましょう。福音書では、イエスは見栄や偽善、浅薄さ、自己満足に人々を導く虚栄の心に警戒し、常に心を正すよう注意しています。パウロはコリントの信徒への手紙で「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(2コリント5,20)と交わりの中に招き入れようとしています。使徒のこの招きは、レントの悔い改めへのさらなる招きでもあります。パウロは、神の恵みの力を特別な方法で体験しました。パウロはテモテに宛てた第一の手紙の中で書いています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られました。私は、その罪人の中で最たる者です」。そしてパウロは付け加えます。「私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の生命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(1,15-16)。実際、彼は 自分が多くの人々の手本となるべき者であることを自覚していました。多くの人の手本、それは彼の悔い改めとを切り離しては語ることはできません。彼が手本となってほしいと願う事柄は、神の恵みによって起こった生活の変容に関することです。神の選びは私たちの選びとは根本的に違っています。敵対するものを神は本来の道筋に戻していきます。失敗を新しい方向へと進ませてくださいます。「以前、私は神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、それは信仰のない時に、知らずにしたことなので、憐れみを受けました。こうして、私たちの主の恵みが、…私にあふれるほど与えられました」(1テモテ 1,13-14)。パウロのすべての説教、彼の宣教者としての存在そのものが、神の恵みの根本的な体験に由来します。「神の恵みによって今日の私があるのです。そして、私は使徒のだれよりも多く骨を折って働きました。しかし、働いたのは私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」(1コリント 15,10)。神が彼を力強い内的を与え続けてくださったのです。 パウロは、すべてが神の恵みの業であると認めていました。今日、私たちはこの礼拝からはじめて、自分自身をしっかりと見つめなおしましょう。汝ちりなればちりに帰るべきをおぼえよ。自分は優れている存在であるという虚栄や欺瞞から私たち自身を解放していかなければなりません。私たちはかつて洗礼を受けて新しい生命の恵みに自由に答えていくようにされました。神が選びだし、神の大きな恵みによって私たちは変えられたのです。そのことを思い出してください。ちりに帰るべき存在であるにも関わらず、私たちは大きな希望を与えられているのです。そしてその希望に応答するためにローマの教会へ宛てて書いています。「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させ、その欲望に屈服してはなりません。また、あなた方の五体を、罪に仕えるよこしまなことのための道具にしてはいけません。かえって、自分自身を死者の中からよみがえったものとして神に献げ、また五体を義に役立つ道具として神に献げなさい」(ローマ6,12-13)。この言葉の中に、私たちはレントの過ごしたかたをしっかりと学ぶことができます。死と復活によって実現されたキリストの罪に対する決定的な勝利、そして私たちの五体を罪に提供しないように、罪に再び陥ることのないように注意を促します。キリストはご自身が与えられた勝利を、自分を信じる者たちも同じように自分のものとすることを期待しています。
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