Session 1

  講話 竹田主教 11月22日 夜

今回は「死」ということについて、死に直面している人々への牧会についてご一緒に学びましょう。特に死の準備ということは牧会でも大きな課題になっていますし、また心理学的対応―不安なく死んでいく死についての学問―は大変発達してきているようですが、今回は宗教として仏教ではどのように考えるのかを研修しようとするものです。


最近マイケル・フォールという人が書いたヘンリー・ナウエンの伝記が出ました。非常におもしろく感激して読みました。このことから話を進めたいと思います。
彼は〈死ぬということ―dyingということ―〉〈死んでいくこと〉を野球のキャッチャーに対して球を投げ込んでゆくように、自分を投げ出して自分で神を捕らえようとしないで、神があなたを捕らえてくれるのだ、そのことを信頼していくことだというのです。
伝記は『Wounded prophet(傷ついた預言者)』という題なのですが、ナウエン自身が逆説的な言い方ですが、〈wounded healer(傷ついた治癒者)〉といわれます。二、三年前にこの研修会で読んだ本『イエスの御名で』の中にも〈wounded Jesus(栄光のイエスの姿)〉、よみがえったイエスの姿こそ傷ついたイエスだという個所がありました。
東京教区宣教方針である「最も小さい者に出会い仕える」、というときに根本的にぶち当たる問題は、泣く者と共に泣き、泣いている最も小さい者と共にいられるか、ということです。我々特に教役者は教える立場であり、聖別する立場ですから特に主教職はマジステリオン、教導職、マスターですから、小さい者になれない立場なのです。ですから、イエス、最も小さい者であるイエスに仕えることができない。根本的な問題として何時でも突き付けられるわけです。最も変えることができない自分の在り方が一方にあり、一つになれる手掛かりとして、イエスをみたり、ナウエンの本を読んだり、生き様をみたりすると、傷つくことが一つになれる手掛かりではないかと思うのです。
傷つくことができる、傷つきやすさ( vulnerability, vulnerable)、教役者またクリスチャンとして傷つくことができるのか。自分で傷ついたような体験をしますが、その時に傷つけた人を設定してしまったり、恨んだり、責任を負わせたり、許せない者を作ってしまったりします。そうすると折角傷ついているのに、その傷が非常に観念化してしまったり、無くなってしまうことがおこる。どうしても自分の傷として受け入れられない―傷つくことができる対象ではなくなってしまう―そういう心理作用や心理作業を心の中でしてしまう。ですから傷つくことができるという自分の在り方をナウエンをみると学べるのではないかと思います。つまり、傷ついた預言者、傷ついた治癒者、傷ついたメシヤ、傷ついたイエスを考えることが、傷つきにくくなっている自分、傷つかないようにする行動ができあがっている、そういう近代の神学教育がいろんな挑戦を受けるわけです。人生の危機やいろいろな人の相談にいかに応えるか、方程式を学ぶわけですが、その時に、自分も傷つかないで対応できる、技能、理論あるいは解答の言葉を学んでしまいます。防衛技能を強化してしまいます。
そういうわけで傷つきにくい〈defense〉をなくし、傷つきやすくなることが、泣く者と共に泣くということができるイエスの姿に倣った牧会者のあり方に形成されていくのではないかと思います。ナウエンは傷つくままに動いたと思います。防衛することを拒否した生き方をしていたことがよく判ります。彼は世界的に有名になる前、七〇年代、八〇年代、世界の方々で講演をしています。私も聴いたことがありますが霊的な指導者であります。多くの人が彼の助言を受けて救われたという体験をしています。そして傷が癒されたという体験をしています。
彼の講演には何千何百と集まって来ます。彼は単に座って話すのではなく、身振り、手振り、目付きで聴衆を魅了するような話し方をする生れながらの俳優、アクターだといわれます。しかし―多くの人が救われるのですが―彼の親しい友人の言葉として、「時々講演が終わって、ホテルの部屋に帰ると彼はもう悲しい道化師のように一人で沈んでいる姿をよく見た」と言います。そして「そういう人だから、霊的にも信仰的にも精神的にも成熟した人のようにみえるが、全く反対の人で傷ついた精神的にも不安定な人で自分の部屋に引き篭もって悲しい顔をして座っていた」と。
彼の傷ついた人を癒す力というのは、霊的に優れた人、成長した人というよりも、彼自身が霊的に傷ついた人であったからだと思います。彼自身言っていますが、「他人の傷ついたところに近づくことができるのは、自分自身の傷ついている部分からだ」というわけです。傷もない、完全な者として理論もカウンセリングも勉強してどんな悩んだ人が来てもよいようにでき上がった人ではなくて、いつもそれができないでいるという自分の傷の部分から他人の傷に届くことができます。イエス自身が栄光ある復活した姿であってもその生々しい手、足、脇腹に傷をもつ姿です。


気付いた人もいるかと思いますが、ナウエンは同性愛者、ゲイでありそのことで悩んでいました。カトリックの司祭として召命に応えるという霊的な側面と同時に非常に心理的な痛み、内的な葛藤を持っています。これが彼の本だとうまくつじつまがあっていますが、自分の生き様は心理的な調和はしていない―いつもidentityの問題をもっています。彼は七〇年代にはいわゆる牧会学の教授として学問の世界にいましたが、八〇年代には世界的に有名な霊的指導者であるC・S・ルイス、トマス・マートンと同じように有名な霊的カトリック司祭になっていきます。七〇年代、イェール大学にいた頃はゲイ、レズビアンなど同性愛者をサポートしていましたが、八〇年代になるとカトリックの伝統的な教えに戻ってしまいます。非常に厳格な否定的な態度をとるようになります。しかし一方において彼の内心は安らかでなかったのです。そして八〇年代の終わりになるとノイローゼ神経衰弱に陥る―これは自分の中に整合性〈identity〉がなくなってしまったためで、有名なラルシュに行ったのはその後です。そこで安らぎを得たと同時に人と親しくなれなかったたのですが、その間もノイローゼになる程の内面の葛藤状態にありながら、彼の言っていることはますます有名になってきます。以前読んだ「イエスの御名で」も八〇年代の終わりに肉体と霊の葛藤の中にあって非常に傷ついている精神状態で書かれたものです。
この本( Wounded prophet )は第一章「Heart(気持ち・心)」、第二章「Mind(知性)」、第三章「Body(身体・肉体)」、の三章に分かれています。彼の表現は非常に率直で、非常にプライベートなことまで書いてしまうので、編集者に削られたり修正されたりしたらしですが、彼の考え方は最も個人的なプライベートな問題こそ人間の普遍的な問題につながり、皆でshareしあうことが必要だという思いがあったのだと思います。そういうことで『Wounded Prophet』という題がつけられて、彼こそ傷ついた預言者ではないか、多くの人を癒したことは、彼が霊的な技能が優れた人ではなくて、やはり彼自身が傷ついていた人であったので、同じ傷、同じ悩みを持つ人に近づくことができたのではないかというわけです。そういう意味で傷つくこと、傷つくことができること、これが一つ私たちの根本的な泣く者と共に泣くというきっかけ、手掛かりではないか…これはイエスの傷とつながっていくと思います。
イエスこそあらゆるいと小さな者たちとidentifyできた方だと思います。我々はイエスに従って牧会をしようとする時、如何にして十字架の傷を受けることができるか、イエスと共に十字架を負うことができるかが相変わらず我々の問題の再確認です。どこかに私たちの使命について再確認したいとありましたがそういうことだと思います。 もう一つ、預言者というのは、例えば第二イザヤの「僕の歌」をみると「私たちは彼の傷によって癒された」という言葉があるが、エレミヤにしろホセアにしろ全ての預言者は傷を負っていたのではないかと思います。ですからイエスの準備としての役割を果たしてきたと思います。


もう一つ本を紹介したいと思います。私が神学校で牧会学を教えていた時にこの本を使ったこともあるのでご記憶の方もあるかもしれません。『病いの声(Voice of illness)』という本でARNE・SIIRALAというフィンランドの人が書きました。
彼は私が最初にユニオン神学校に留学したときに、若い講師として海外から来た学生の歓迎会で隣に座っていた人でした。イエスの「よみがえり」の問題について取り組みたいということを語ったところ、彼も同じような興味を持ち論文を書いていました。彼は心理学者であり、神学者でありパウル・ティリッヒの弟子でした。彼がどういうきっかけでこの「病いの声」に取り組んだかというと、第二次大戦が終わったときに、アメリカと英国の医者や心理学者がチームを作ってナチスの収容所に行って、ユダヤ人の生き残った人々を尋ね、大変な状態にいた人たちを救いだして、社会に復帰させようと、解放、治療に当たったのだそうです。そのうちに一人の医療班の医者が収容されていた人の中で割り切った人たちの心理状態はちっとも変わらないことを発見しました。彼らのやったことは、面接して診察しグループにわけて、分類し、アンケートを出し、答えを出すということをしていたのですが、このやり方では社会に復帰できない、リハビリテーションができないことを発見しました。彼らはこれは結局、コンセントレーション・キャンプと同じやり方だと気づきやめました。そして全く逆の状態を作ろうとしたがこれも失敗しました。ある軍隊の指導のもとに大変に権威主義的な所長が来て、全く逆戻りしてしまう体験をし、そこから問題提起をします。回復を願うところから「アドバーシェム」(場所と名前の意)と名付けられましたが―それと全く同じことが近代の病院、心理療法、臨床心理は分類していくのですが―結局は癒しがないと彼は言います。
病気、病いを負うということは、一つの病いはメッセージを持っており、ある一定の社会、グループに対して何か言いたいことがある、その社会の病気を指摘しようとするということだ…病気は個人的に起こるのではなくて、一人の人と社会の間の歪曲された関係、その関係が病的なのだ、という。それに対して適切なコミュニケーションを持ち、適切にメッセージが受けいれられた時に病いが癒されるというのが彼の主張です。特に精神的な病気にかかった人をどう社会が扱ってきたかという歴史を調べると、病いのメッセージを消してしまうことをずっとしてきた―保護、治療として社会の方は健康な癒す力を持っていて、不健康な状態を癒せばよい、施設を作って収容してしまえばいいという形で、声を、メッセージを聞こうとしない状態になってしまう―その問題を彼は指摘するわけです。病いには正しいコミュニケーションに戻そう、和解の関係に戻そうとするメッセージがある。これが〈病いの声〉であり、これはまさに預言的な声を持っています。我々は今の社会からこのような声を排除し、聞くことをせず、打ち消そうとします。そういう形で治療( therapy)をしようとし、病的な社会にrehabilitatoしようとします。このプロセスがまさに現在の社会であり、彼はこの癒しの仕方を問題提起しようとしました。


様々の「病いの声」について、教会はこれをいかに打ち消すか、正すか、という姿勢にどうしてもなってしまいます。その中で教会の役割り、宣教の役割りはどうあるべきか、どうしたらよいのか…泣く者と共に泣くというイエスの言葉を私たちは簡単にできると思っている…預言者の働きをみていくとそういう問題があるのではないでしょうか。
昨日の福音書の中の「この中で最も小さい者にしたことは私にしたことである。最も小さい者にしなかったことは私にもしなかったことである」というイエスの最後の言葉は、マタイの前後関係からみると一般的に言っているのではなく、宣教者、イエスが派遣した弟子たちに向けて言った言葉です。弟子たちの中でも当時使徒の在り方を受け継いで貧しく、托鉢しながら宣教していく、定着を嫌う宣教集団(wandering charismatic)があり、一方において教会が拡がってエルサレムに定着した教会ができてきます。同時に両者が共存していました。恐らく、いと小さき者とは彼らのことを言っているのではないかと私は思いますが、特にペテロ、ヤコブなどは定着していくと、最初は定着した教会が彼らを支え、救けていた関係であっわけですけれども、次第次第にうっとうしくなってきます。今のホームレス、放浪集団はどうしても邪魔になり、段々抑圧されて定着した教会だけが発展し残ったのだと思います。
「病いの声」が出るような所をつぶして、抑圧していく。こういう傾向は特に近代の医学に強いのです。病気は個人的な一人の人のもので、どう直していくかだけが問題で、病いから出る声は打ち消されていくだけです。
病者というのは病者を見る方の側の社会の病的な状態、これの反映であるとして、それを指摘するのが「病いの声」です。まさに預言者だと言います。いろいろ批判もあるが尊敬するナウエンと共に紹介したいと思います。


こういう人たちの指摘は、我々の社会では、小さい者と共に泣くということは不可能に近いような状態の中で、傷つくことで一緒になれるという希望、光を与えてくれます。非常に霊的な洞察を持っている。これが彼の貢献だと思います。
今、同性愛の問題が非常に議論されています。聖書では、罪人、不道徳として癒さなければならない強い議論があると同時に、同性愛でも神の子だ、受け入れるべきだ、教会のメンバーが受ける恵みは当然 share できるとする議論のある中で、ナウエンはそういう議論を越えた所で預言者的な発言をしているということが言えると思います。ナウエンには取り組んで頂きたいと思います。
彼の最後に書いた『Inner voice of love(愛の内的な声)』―九六年、亡くなる年に書いた本があります。これで始めて肉体を自分のいるべき所に戻す(bring your body home)という言葉を使います。霊的なことは極めて肉体的な意味合いを持ち、切り離すことはできない…創造論からも受肉論からも信仰とか神学的な考えからも二元論になるのですが、これを克服する近代を越えた方向を見つけだすことが今の宣教の課題ではないかと思います。
大畑くんから課せられた「今日の宣教と私たちの使命」はそのあたりにあると思います。これは聖職養成委員会主催の研修会ですが、やはり牧会の準備、牧会の訓練をするということは一体どういうことなのか、神学問題が改めて現代問いなおされている時ではないかと思います。


もう一つ今回の試みのように特に仏教の教えについて学ぶことは大ことなことであると思います。それに日本古来の死生観をもう一度見直すことが大切なことなことであると思います。そういうことを学びながら死に直面する根本的な〈negativity〉、否定である死と死に直面することをどう考えたらよいか…私たち自身への牧会として傷つくものとして進んで行けたらと思います。

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